遠い北の国で、夜空にゆらめく光のカーテン、オーロラを見に行った男の子の物語だ。
アオイという名前の男の子がいた。
アオイは、星や宇宙の話が大好きだった。
それは、元天文学者のおじいちゃん、ハルキさんの影響だった。
ある冬の寒い夜、アオイはハルキさんの部屋で、古いアルバムを一緒に見ていた。
「おじいちゃん、これなあに」
アオイが指さしたのは、夜空に緑色の巨大なカーテンが舞っているような、不思議な写真だった。
「おお、これはな、オーロラというんだよ」
ハルキさんは懐かしそうに目を細めた。
「オーロラ?」
「そうだ。夜空に現れる、光のシンフォニーさ」
ハルキさんは、アオイを膝の上に乗せると、ゆっくりと話し始めた。
「いいかい、アオイ。僕たちが住んでいるこの地球には、目には見えないけれど、大きな磁石のような力が働いているんだ。
これを地磁気という。
そして、空に輝く太陽からは、プラズマと呼ばれる電気を帯びた小さな粒がたくさん、宇宙空間に吹き出している。
太陽風と呼ばれる、太陽の息吹のようなものだね。
その太陽風が、長い長い旅をして、地球にたどり着く。
すると、地球の磁力に引き寄せられて、北極や南極の近く、つまり地球のてっぺんとお尻のあたりに集まってくるんだ。
そして、地球を覆っている空気、つまり大気の粒と、ものすごい速さでぶつかる。
その時に、光が生まれるんだよ。
それが、このオーロラの正体さ」
アオイは、ぽかんとした顔で聞いていた。
「太陽のつぶつぶが、地球とぶつかって光るの?」
「その通りだ。よくわかったな。
オーロラの色が違うのも不思議だろう。
この写真のように緑色に見えるのは、空気の中にたくさんある『酸素』の粒とぶつかった時に生まれる光なんだ。
もっと空の高いところでぶつかると、珍しいけれど赤色に見えることもある。
そして、ピンクや紫の光は、『窒素』の粒とぶつかった時の色なんだよ。
ぶつかる相手と場所によって、オーロラは色々な色に姿を変える。
まるで、夜空に絵を描いているみたいだろう」
ハルキさんの話を聞いていると、アオイはまるで自分が宇宙船に乗って、太陽の粒と一緒に旅をしているような気分になった。
写真の中のオーロラは、ただの綺麗な景色ではなく、地球と太陽が繰り広げる壮大な物語のように思えた。
「すごい…本物を見てみたいな」
アオイの呟きに、ハルキさんはにっこりと笑った。
「そうだな。いつか、本物のオーロラを一緒に見に行こう。
空から降ってくるような、光のカーテンを、この目で一緒に見ようじゃないか。
おじいちゃんとの、約束だ」
その日から、アオイの宝物は、あのオーロラの写真になった。
夜、ベッドに入ると、アオイはいつも目を閉じて、夜空に揺らめく緑色の光を思い描いた。
いつかおじいちゃんと一緒に見る、本物のオーロラの夢を見ながら、眠りにつくのだった。
約束から、いくつかの季節が巡った。
アオイが、小学校を卒業する春のことだった。
「アオイ、約束を覚えているかい」
ハルキさんが、一枚のパンフレットを手に、アオイに優しく問いかけた。
パンフレットには、雪と氷に覆われた美しい街と、夜空に輝くオーロラの写真が印刷されていた。
行き先は、北極圏に位置する、カナダの小さな街、イエローナイフ。
世界有数のオーロラ観測地として知られる場所だ。
「約束…オーロラ!」
アオイの心が、大きく弾んだ。
あの日からずっと夢見ていた、おじいちゃんとの約束。
二人は、旅の準備を始めた。
クローゼットの奥から、分厚いダウンジャケットや、もこもこの手袋、耳まで隠れる暖かい帽子を引っ張り出してきた。
マイナス30度にもなるという、極寒の地に備えなければならない。
「カイロもたくさん持っていこうな」
「うん!それから、天体望遠鏡も!」
「もちろんさ。オーロラだけじゃなく、北の国で見える星も格別だからな」
荷造りをしながら、二人の会話は尽きなかった。
出発の日。
アオイとハルキさんは、大きなスーツケースを引いて空港へ向かった。
飛行機は、長い時間をかけて西へ、そして北へと飛んでいく。
窓から見える景色は、アオイが住む街の緑豊かな風景から、次第に白い大地へと変わっていった。
どこまでも続く雪原と、凍りついた湖。
まるで、世界の果てに向かっているようだった。
長いフライトの末、ようやくイエローナイフの空港に到着した。
飛行機のタラップを降りた瞬間、鋭く冷たい空気がアオイの頬を刺した。
吐く息が、目の前で真っ白な雲になった。
「うわ…!」
思わず声が漏れるほどの寒さ。
でも、その空気はどこまでも澄み切っていて、吸い込むと胸の奥がすっとするような、不思議な感覚だった。
街は、すっかり雪景色だった。
屋根には厚く雪が積もり、道端には氷の彫刻が飾られている。
人々は、犬が引くそりに乗って楽しそうに移動していた。
日本とは全く違う景色に、アオイは目を輝かせた。
ホテルに着いてからも、アオイの興奮は冷めやらなかった。
「おじいちゃん、オーロラはいつ見れるかな」
「ははは、焦るんじゃない。オーロラは自然からの贈り物だからな。
いつ現れるかは、空の気分次第さ。
僕たちは、静かにその時を待つんだよ」
ハルキさんはそう言うと、温かいココアを淹れてくれた。
甘い香りに包まれながら、アオイは窓の外に広がる銀世界を眺めた。
今はまだ昼間。
太陽の光が雪に反射して、街中がきらきらと輝いている。
この空が、夜にはどんな表情を見せてくれるのだろう。
アオイは、これから始まるオーロラとの出会いに、胸を高鳴らせていた。
最初の二日間、夜空は厚い雲に覆われていた。
満点の星どころか、月さえも見えない夜が続いた。
アオイは、少しだけがっかりした。
「オーロラ、見れないのかな…」
そんなアオイの頭を、ハルキさんは優しく撫でた。
「自然は気まぐれだからな。
でも、こうして待つ時間も、旅の楽しみのうちだよ。
オーロラが見えない夜は、北の国の静けさをじっくりと味わおうじゃないか」
その言葉通り、二人は昼間のうちに、犬ぞりに乗って凍った湖の上を駆け抜けたり、先住民の文化を伝える博物館を訪れたりして、北の国での時間を満喫した。
そして、滞在最後の夜がやってきた。
その日の夜は、嘘のように雲一つない、完璧な快晴だった。
空には、数えきれないほどの星が、ダイヤモンドのようにきらめいている。
「アオイ、今夜は期待できるかもしれんぞ」
ハルキさんの声も、心なしか弾んでいた。
二人は、観測ツアーのバスに乗り込んだ。
街の灯りが届かない、真っ暗な湖畔へと向かうためだ。
バスを降りると、そこは静寂に包まれた雪原だった。
雪を踏みしめる「きゅっ、きゅっ」という音だけが、辺りに響く。
空を見上げると、星の光が、まるで今にも降ってきそうなくらい、近くに見えた。
「さあ、ここからが本番だ」
二人は、持参した温かい紅茶を水筒から注ぎ、息を殺してその時を待った。
一分、また一分と、静かな時間が流れていく。
あまりの寒さに、鼻の奥がつんとした。
その、瞬間だった。
「…アオイ、あれを」
ハルキさんが、北の地平線を指さした。
見ると、そこだけが、ぼんやりと白く光っているように見えた。
雲だろうか。
いや、違う。
その光は、ゆっくりと、そして確かに、形を変え始めた。
淡い緑色の光の帯が、まるで巨大な生き物のように、地平線から空へと伸びていく。
「うわ…」
アオイの口から、感嘆のため息が漏れた。
光の帯は、みるみるうちに色を濃くし、その姿をはっきりとさせていく。
それは、まさしく緑色のカーテンだった。
巨大な光のカーテンが、夜空全体に広がり、優雅に、そして雄大に、ゆらゆらと揺らめいている。
アオイは、言葉を失っていた。
写真で見たものとは、比べ物にならない。
スケールも、美しさも、その迫力も、全く違う。
まるで、夜空が生きているかのようだ。
緑色のオーロラは、時にその中に、淡いピンク色の光をまとった。
紫色の光が、カーテンの裾を彩ることもあった。
それはまるで、天の川のほとりで、女神たちが美しい衣を翻して踊っているかのようだった。
寒さも忘れ、アオイはただ、空を見上げていた。
隣で、ハルキさんが静かに語りかけた。
「あれは、太陽の息吹なんだよ、アオイ。
はるか一億五千万キロも離れた太陽から届いた、小さな小さな光の粒たちが、今、この地球の大気に抱かれて、あんなにも美しい光を放っている。
僕たちは今、広大な宇宙の片隅で、地球と太陽が奏でる、壮大な光のシンフォニーを聴いているんだ」
その言葉を聞いて、アオイの胸に、熱いものがこみ上げてきた。
自分は今、とてつもなく大きなものの一部になっている。
この美しい地球に生まれ、この奇跡のような光景を、大好きなおじいちゃんと一緒に見ている。
その感動に、アオイの体は震えた。
涙が、頬を伝う前に、冷たい空気の中で凍ってしまいそうだった
光の饗宴は、一時間ほど続いただろうか。
激しく舞い踊っていたオーロラは、次第にその輝きを穏やかにし、少しずつ夜空の闇に溶け込んでいった。
まるで、素晴らしい舞台の幕が、静かに下りていくように。
帰り道、バスの窓から見える星空は、さっきまでとはどこか違って見えた。
アオイは、隣に座るハルキさんの手に、自分の手をそっと重ねた。
「おじいちゃん」
「ん?」
「連れてきてくれて、ありがとう。
今日の夜のこと、僕、一生忘れないよ」
ハルキさんは、アオイの手を優しく握り返した。
その手は、とても温かかった。
「よかった、
アオイの心の中に、お前さんだけのオーロラが灯ったのなら、おじいちゃんは、それだけで嬉しいよ」
日本に帰ってきてからも、アオイの心の中では、あの夜に見たオーロラの光が、いつまでも消えずに輝いていた。
ふとした時に夜空を見上げると、あの緑色のカーテンが、まぶたの裏に鮮やかに蘇る。
太陽の息吹。
地球と太陽が奏でるシンフォニー。
おじいちゃんが教えてくれた言葉と共に、あの日の感動が何度も胸に押し寄せる。
アオイは、自分の部屋の窓から、静かな夜空を見上げた。
街の明かりで、星はあまり見えない。
もちろん、オーロラが見えるはずもない。
でも、アオイには見えていた。
心の中に、決して消えることのない、美しい光のカーテンが。
「おじいちゃん、ありがとう」
小さな声で呟くと、アオイはベッドにもぐりこんだ。
いつかまた、オーロラを見に行きたいな。
そして、今度は自分が、誰かにこの感動を伝えてあげたい。
そんな新しい夢を胸に抱きながら、アオイはゆっくりと目を閉じた。
きっと今夜の夢は、オーロラのように、きらきらと輝いているに違いない。
おやすみ、アオイ。
良い夢を。
