ゆうちゃんは、とっても元気な男の子。
その頭の中は、楽しいことでいつもいっぱいでした。
朝、お日様が窓から「おはよう」と顔を出すと、ゆうちゃんはベッドから飛び起きます。
そして、色とりどりのブロックが入った大きなおもちゃ箱に駆け寄るのです。
「今日は、空まで届くタワーを作ろうかな。それとも、ライオンさんが乗れるくらい大きな車にしようかな」
ブロックを一つひとつ手に取りながら、ゆうちゃんの想像の世界はどんどん広がっていきます。
カチッ、カチッ。ブロックが組み合わさる音は、ゆうちゃんにとって、わくわくする冒険の始まりの合図でした。
お天気の良い日には、虫かごを片手に庭を探検します。
アリさんの行列をじっと追いかけたり、石ころをそっとひっくり返して、びっくりして逃げていくダンゴムシに「ごめんね」と謝ったり。
見つけた四つ葉のクローバーは、大切なお守りとして、絵本の間にはさみます。
そして、ゆうちゃんが何よりも大好きなのは、クレヨンでお絵描きをすることでした。
真っ白な画用紙は、ゆうちゃんだけの特別なステージです。
赤色のクレヨンを手に取れば、夕焼け空を飛ぶ真っ赤なトンボを描き、青色のクレヨンを握れば、深い海の底でクジラさんが潮を吹く様子を描きます。
黄色と緑を混ぜて、キラキラ光るお星さまのようなタンポポの野原だって作れます。
ゆうちゃんにとって、世界は美しい色で溢れていました。
そんなゆうちゃんでしたが、一つだけ、どうしても好きになれないものがありました。
それは、お母さんが絵本を読んでくれる時に、絵の隣にいつも並んでいる、あの不思議な形をしたもの。「ひらがな」です。
「ゆうちゃん、ほら、ここに『ありさん』って書いてあるのよ。」
お母さんが指さす先には、くねくね、にょろにょろ、まるでミミズさんがお散歩しているような線が並んでいます。
ゆうちゃんは、それには目もくれず、絵の中の大きなスイカを運ぶアリさんたちのほうに夢中です。
「このアリさん、一番力持ちだね!」
お母さんが、お買い物に行く前にお手紙のようなものを書いている時もそうでした。
「お母さん、それなあに?」
「これはお買い物メモよ。『ぎゅうにゅう』とか『たまご』とか、買うものを忘れないように書いているの。」
ゆうちゃんは「ふーん」と言いながらも、その文字の形には全く興味がありません。
それよりも、冷蔵庫に貼ってあるリンゴのマグネットのほうがずっと魅力的でした。
幼稚園には「もじのじかん」がありました。
先生が大きな紙に「あ」という字を書いて見せます。「みんなも書いてみましょう!」
周りのお友達は、楽しそうに自分の名前を書く練習をしています。
でも、ゆうちゃんは「ぼくは、ねんどでおだんごを作るほうがいいや」と、丸い粘土をこねるのに夢中でした。
「ひらがななんて、まだ覚えなくても大丈夫。だって、ぼくにはクレヨンがある。絵を描けば、何でも伝えられるもん」
ゆうちゃんは、本気でそう思っていたのです。
ゆうちゃんには、とってもとっても仲良しのお友達がいました。
笑顔がひまわりのように明るい、りこちゃんです。
二人は、いつも一緒でした。
公園の砂場では、協力して大きなお山を作り、てっぺんに旗を立てました。
そのお山は、二人だけの秘密のお城です。
ブランコに乗る時は、どっちが空の雲さんに届くくらい高くこげるか、競争しました。
「見ててよ、ゆうちゃん!」「りこちゃんこそ、すごいぞ!」笑い声が、青い空に響き渡りました。
雨の日には、ゆうちゃんのお家で遊びます。
毛布でテントを作って、その中に懐中電灯と絵本を持ち込んで、探検ごっこをするのです。拾ってきたきれいな石ころを「これは魔法の石」「こっちは宝物」と言って交換したりもしました。
りこちゃんといると、どんなことでも特別な冒険に変わりました。
そんな、夢のように楽しかったある日のことです。
幼稚園の帰り道、りこちゃんが、急にしょんぼりした顔で言いました。
「ゆうちゃん…あのね、わたし、お引越しすることになったの。」
「おひっこし?」
ゆうちゃんは、その言葉の意味がすぐには分かりませんでした。
「うん。お父さんのお仕事でね、遠い、遠い町に行くの。電車と、新幹線に乗って行くくらい、遠い町」
ゆうちゃんの頭の中が、一瞬、真っ白になりました。
心臓のあたりが、きゅーっとなる感じがしました。
遠い町?もう、毎日一緒に遊べなくなるっていうこと?あの公園のブランコも?秘密のお城も?
「いやだ…」
ゆうちゃんは、小さな声でそれだけ言うのが精一杯でした。
りこちゃんの目にも、涙がみるみるうちに溜まっていくのが見えました。
お別れの日は、ゆうちゃんが思っていたよりもずっと早くやってきました。
幼稚園では、りこちゃんのお別れ会が開かれました。
みんなで「にじ」の歌を歌い、りこちゃんに手作りのメダルをプレゼントしました。
「ゆうちゃん、これ…」
りこちゃんは、もじもじしながら、ゆうちゃんに小さな紙と、キラキラ光るピンク色のビーズをくれました。
紙には、りこちゃんが描いた、ゆうちゃんと自分の顔の絵がありました。
まだ字は書けないけれど、一生懸命な気持ちが伝わってきました。
ゆうちゃんも、お返しに何かを言いたかったのです。
胸の中には、伝えたい言葉がたくさん、たくさん渦巻いていました。
「りこちゃん、今までありがとう!」
「新しい幼稚園でも、元気でね!」
「ぼく、りこちゃんのこと、絶対に忘れないよ!」
「大好きだよ!」
でも、言葉は喉の奥でつかえてしまって、うまく出てきません。
代わりに、目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきました。
ゆうちゃんは、泣き顔を見られるのが恥ずしくて、俯いたまま、さよならのバイバイもできずに、ただりこちゃんのスカートの裾を見つめているだけでした。
トラックがりこちゃんのお家の荷物を全部運んで、車に乗ったりこちゃん一家の姿が、道の角を曲がって見えなくなっていくのを、ゆうちゃんは窓から呆然と眺めていました。
りこちゃんがいなくなってから、ゆうちゃんの世界からは、色が少しだけ消えてしまったようでした。
公園に行っても、隣のブランコはいつも空っぽです。
一人でこぐブランコは、前よりもずっと低くしか飛べないような気がしました。
秘密のお城だった砂山も、ただの砂の山にしか見えません。
お家でブロックを組み立てても、「ここはりこちゃんの担当だったのにな」と思い出して、すぐに飽きてしまいました。
(どうしたら、この寂しい気持ち、りこちゃんに伝えられるんだろう…?)
(「大好き」って、ちゃんと言えなかったこと、伝えたいな…)
ある晩、ゆうちゃんはお母さんに頼んで、りこちゃんのお家に電話をかけてもらうことにしました。
受話器から聞こえる、「もしもし」というりこちゃんの声に、ゆうちゃんの心臓はドキドキと大きく鳴りました。
「りこちゃん?ゆうだけど…」
「あ、ゆうちゃん!元気?」
「う、うん…元気だよ…」
そこから、言葉が続きません。何を話したらいいんだろう。あんなにたくさん伝えたいことがあったはずなのに。
ゆうちゃんはモジモジするばかりで、結局、「じゃあね」と言って、お母さんに受話器を返してしまいました。
電話を切った後、ゆうちゃんはますます悲しくなりました。
電話でも、うまく話せない。絵を描いて送っても、この胸がいっぱいな気持ちの全部は、きっと伝わらない。
ゆうちゃんは、自分の部屋のベッドに突っ伏して、しくしくと泣き出してしまいました。
ゆうちゃんの涙で濡れた枕元に、お母さんがそっと座りました。
そして、優しく背中を撫でながら言いました。
「ゆうちゃん、りこちゃんに気持ちを伝えたかったのね」
ゆうちゃんは、しゃくりあげながらこくこくと頷きます。
「お話するのも、絵を描くのも、もちろん素敵よ。でもね、もう一つ、気持ちを伝える素敵な方法があるの。それはね、『お手紙』よ」
「おてがみ…」
「そう。お手紙なら、ゆうちゃんの伝えたい言葉を、ゆっくり、一つひとつ、心を込めて書くことができるわ。ひらがなで書いた言葉はね、ゆうちゃんの気持ちを乗せて飛んでいく、魔法の紙飛行機みたいなものなの。遠くにいるりこちゃんの心に、ちゃんと届けてくれるはずよ」
「魔法の…紙飛行機…」
ゆうちゃんは、泣きながら顔を上げました。
りこちゃんの、あのひまわりのような笑顔が、心の中にぱっと浮かびました。
そうだ、りこちゃんに「だいすき」って伝えたい。
あの時言えなかった、一番大切な言葉を、今度こそ届けたい。
「お母さん…ぼく、ひらがな、頑張る!」
ゆうちゃんの濡れた瞳が、小さな決意の光でキラリと輝きました。
その次の日から、ゆうちゃんの挑戦が始まりました。
最初は、お母さんと一緒に、鉛筆の持ち方から練習です。
そして、お絵描きのように、自由な線をたくさん引きました。まっすぐな線、なみなみの線、ぐるぐる渦巻きの線。これはまだ、いつものお絵描きみたいで楽しいものでした。
でも、いよいよ文字の練習が始まると、ゆうちゃんは壁にぶつかりました。
まずは、自分の名前から。「ゆ」と「う」。
「うーん、なんだか、曲がりすぎちゃう…」「こっちは、カクカクになっちゃった…」
お手本のように、きれいな形が書けません。
何度も何度も消しゴムで消して、紙が少し黒くなってしまいました。
それでも、何十回も書いているうちに、少しだけ「ゆう」という形に見える文字が書けたのです。
「わあ!ぼくの名前だ!」
初めて自分の力で書いた自分の名前に、ゆうちゃんは飛び上がりそうなくらい嬉しくなりました。
次に、「し」や「く」のような、一画で書ける簡単な文字に挑戦しました。
これはスイスイ書けて、ゆうちゃんは少し得意になりました。
しかし、すぐに手強い相手が現れます。「あ」「め」「ぬ」「む」。くねくね、ぐるり、結んで、また線を引いて…。まるで知恵の輪のようです。
「うわーっ、むずかしい!」
書いても書いても、お手本とは違う、変な形の生き物みたいな字になってしまいます。
悔しくて、悲しくて、ゆうちゃんはとうとう「もうやだー!」と鉛筆を放り出して、練習帳を床に叩きつけてしまいました。
その時、お母さんがそっと練習帳を拾い上げて言いました。
「あら、この『あ』は、お団子を美味しそうに食べてるみたいで可愛いわね。
こっちの『む』は、カタツムリさんがお散歩してるみたい。
ゆうちゃんの字は、元気があって、お母さん好きよ。」
お母さんは、ゆうちゃんのできないことを叱りませんでした。
代わりに、面白いところ、素敵なところを見つけてくれたのです。
ゆうちゃんの心から、少しだけトゲトゲした気持ちが消えていきました。
お母さんは、もっと楽しい練習方法も教えてくれました。
お風呂に入った時には、壁にシャワーの水をかけて、指でひらがなを書きました。
書いた字はすぐに消えてしまうけれど、それがかえって面白くて、ゆうちゃんは夢中になりました。
公園の砂場では、木の枝を拾ってきて、大きなりこちゃんの名前を書きました。「り・こ」。りこちゃんの「り」は、なんだか可愛いリボンみたいだな、とゆうちゃんは思いました。
それでも、またくじけそうになる時がありました。
「ぼく、お手紙なんて、本当に書けるようになるのかな…」
弱音を吐くゆうちゃんに、お母さんは古いアルバムを持ってきました。
そこには、まだ赤ちゃんのゆうちゃんが写っていました。
「見て、ゆうちゃん。この頃は、まだハイハイもできなかったのよ。でも、何度も何度も転んで、お尻をぶつけて、それでも立ち上がろうとして、やっと歩けるようになったの。ひらがなも、それと同じ。今、ゆうちゃんは、言葉の足で、一生懸命立とうとしているところなのよ」
ゆうちゃんは、その言葉を聞いて、りこちゃんがくれたピンク色のビーズをぎゅっと握りしめました。ビーズは、手のひらの中でキラリと光りました。
(そうだ。りこちゃんに、気持ちを届けるんだ。)
ゆうちゃんは、もう一度、机に向かいました。
来る日も来る日も、ゆうちゃんはひらがなの練習を続けました。
指には、鉛筆だこが小さくできました。それは、ゆうちゃんのがんばりの印でした。
少しずつ、書ける文字が増えていきました。「いぬ」「ねこ」「くるま」。身の回りの物の名前が書けるようになると、世界がもっと面白く見えてきました。
そして、ついに、お手紙に書きたい言葉、「だいすき」「あそぼうね」が全部書けるようになったのです。
ついに、りこちゃんへのお手紙を書く日がやってきました。
ゆうちゃんは、机の上に、一番お気に入りの水色の色鉛筆と、大切にしまっていた真っ白な便箋を用意しました。なんだか、すごく特別なことをするような気がして、心臓がドキドキと鳴りました。
深呼吸を一つして、ゆうちゃんは鉛筆を握りました。
一文字、一文字。心を込めて、丁寧に。それは、まるで宝物を置くように、大切な言葉を紙の上に並べていく作業でした。
「り こ ち ゃ ん へ」
文字の大きさはバラバラだし、少し曲がってしまいました。でも、それは間違いなく、ゆうちゃんが自分の力で書いた、りこちゃんの名前でした。
「だ い す き だ よ 。」
一番伝えたかった言葉。この四つの文字を書く時、ゆうちゃんの心は、りこちゃんへの温かい気持ちでいっぱいになりました。
「ま た いっ し ょ に あ そ ぼ う ね 。」
公園のブランコや、秘密のお城を思い浮かべながら書きました。
「ゆ う よ り」
最後に自分の名前を書いて、ゆうちゃんはふうっと大きな息をつきました。
そして、便箋の空いているところに、にっこり笑っているりこちゃんと自分の似顔絵を描き加えました。
手には、あのピンク色のビーズと、魔法の石が握られています。
「できた…!」
たった四行の、短い短いお手紙。
でも、ゆうちゃんのたくさんの気持ちが、これでもかというくらい、ぎゅーっと詰まっていました。
ゆうちゃんは、その手紙を大切に封筒に入れ、お母さんと一緒にポストに向かいました。
赤いポストは、いつもよりずっと大きく見えます。
小さな手で手紙をしっかりと握りしめ、背伸びをして、投函口に入れました。
カタン、という軽い音と共に、手紙はポストの中に吸い込まれていきました。
「りこちゃんに、届け!」
ゆうちゃんは、見えなくなった手紙に向かって、心の中で力いっぱい叫びました。
それからの毎日は、少しだけそわそわする日々でした。
郵便屋さんのバイクの音が聞こえると、もしかして、と玄関に走って行きます。
ポストを開けては、「まだかな、まだかな」と呟くのが日課になりました。
そして、何日か過ぎた、よく晴れた日のことです。
郵便屋さんが、一通の封筒を渡してくれました。
そこには、まだ少し拙いけれど、丁寧な字で、「ゆうちゃんへ」と書かれていました。
りこちゃんからの、お返事です!
ゆうちゃんは、わあっと歓声をあげると、急いで封筒の封を切りました。
お母さんと一緒に、ドキドキしながら中の便箋を広げます。
そこには、りこちゃんが一生懸命書いてくれたひらがなが並んでいました。
ゆうちゃんは、練習したひらがなを、今度は「読む」ために使います。
指で一文字ずつ、ゆっくり、ゆっくりと辿りました。
「ゆ う ち ゃ ん へ」
「お て が み あ り が と う 。」
「と っ て も う れ し か っ た よ 。」
そして、最後の一行に、ゆうちゃんが一番見たかった言葉が書かれていました。
「わ た し も だ い す き だ よ 。」
その言葉を見つけた瞬間、ゆうちゃんの心の中で、何かがぱあっと弾けるように明るくなりました。
嬉しくて、嬉しくて、たまらなくなって、ぴょんぴょんとジャンプしながら、お母さんに抱きつきました。
「お母さん!りこちゃんも、大好きだって!ぼくの気持ち、ちゃんと届いたんだ!」
ひらがなが書けると、お手紙が書ける。
ひらがなが読めると、お友達の気持ちがわかる。
まるで、りこちゃんがすぐ隣に来てくれたみたいでした。
遠い、遠い町にいるりこちゃんと、自分の心が、ひらがなという魔法の糸で、ちゃんと繋がったのです。
この日から、ゆうちゃんはひらがなが大好きになりました。
今までただの絵の邪魔だと思っていた絵本の文字が、面白いお話をしてくれる宝の地図に見えるようになりました。
自分から「これ、なんて読むの?」と聞いたり、知っている字を見つけては、「あ、『く』だ!『くるま』の『く』だ!」と指さしたりするようになりました。
街を歩けば、お店の看板やバスの行き先表示にも、知っている文字がたくさん隠れていることに気づきます。
世界は、ゆうちゃんが知らなかった面白い言葉で溢れていました。
ゆうちゃんは、おじいちゃんやおばあちゃんにも、たくさんお手紙を書きました。
「いつもありがとう」「またあそびにいくね」。
お手紙が届くと、電話がかかってきて、「ゆうちゃん、上手な字で書いてくれてありがとう。とっても嬉しかったよ」と褒めてくれました。
ひらがなは、ゆうちゃんの世界を、びっくりするくらい広くて、温かいものに変えてくれました。
そして、りこちゃんとの文通は、それからもずっと続きました。
ひらがなで繋がった二人の心は、どんなに遠く離れていても、いつまでも一番の友達のままなのでした。
