むかしむかし、海辺の村に、浦島太郎という、心優しい若者が住んでいました。浦島太郎は毎日、小さな舟で沖へ出て、魚を獲って暮らしていました。
ある日のこと、浦島太郎が浜辺を歩いていると、何やら騒がしい声が聞こえてきました。
子供たちが円になって、何かを囲んで囃し立てています。
「そーれ、もっと叩け!」「こっちへ逃げるな!」
浦島太郎が近づいて見てみると、それは一匹の亀でした。
子供たちは、小さな石や棒切れで、その亀をいじめているのです。
亀は首をすくめ、手足を引っ込めて、可哀そうに震えていました。
「こら、お前たち!なんて酷いことをするんだ!」
浦島太郎は大きな声で叱りつけました。
子供たちは浦島太郎の剣幕に驚き、持っていた石を落として逃げていきました。
浦島太郎はそっと亀を抱き上げました。
甲羅は少し傷ついていましたが、かすり傷程度で済みました。
「可哀そうに、怖かっただろう。もう大丈夫だよ」
浦島太郎は優しく声をかけ、亀の甲羅を撫でてやりました。
「さあ、お前は海の生き物だ。早くお家に帰りなさい」
浦島太郎は亀をそっと海に放してやりました。
亀はしばらく浦島太郎の足元でじっとしていましたが、やがてスイスイと波間を泳ぎ、沖の方へと消えていきました。
浦島太郎は、良いことをした心地よさで胸がいっぱいになり、また自分の仕事へと戻りました。
動物には優しくする。
それが、この浦島太郎の大切にしていることでした。
それから数日後、浦島太郎はいつものように舟を出し、沖合で網を投げ入れていました。
空は青く澄み渡り、波は穏やかに揺れて、漁には絶好の日和でした。
すると、舟のそばに、何かが浮かび上がってきました。
よく見ると、それは先日浦島太郎が助けてやった、あの大きな亀でした。
「おや、お前か。どうしたんだい、こんな沖まで」
浦島太郎が声をかけると、亀はまるで人の言葉がわかるかのように、静かに浦島太郎の舟の横に寄り添いました。
そして、信じられないことに、亀は透き通った声で浦島太郎に話しかけたのです。
「浦島様、このたびは命をお助けくださり、まことにありがとうございました。私は、竜宮城の乙姫様の使いでございます。乙姫様が、浦島様の親切に感謝して、是非とも竜宮城へお招きしたいと仰せです」
浦島太郎は驚いて目を見開きました。
竜宮城とは、噂に聞く、海の中に建っているという、それはそれは美しい宮殿のことです。
「竜宮城へ?しかし、私は人間だ。どうやって海の中へ行けるというのだ?」
亀は言いました。
「ご安心ください。わたくしの背中にお乗りくださいませ。私が浦島様を、海の中深くにある竜宮城までお連れいたします」
浦島太郎は少し迷いましたが、この亀が自分を騙すような悪さを働くはずがないと思いました。
何より、竜宮城という夢のような場所を見てみたいという好奇心が抑えられませんでした。
「わかった。では、お言葉に甘えよう」
浦島太郎は舟から亀の大きな背中に乗り移りました。
亀は静かに体を沈め始めました。海の水が、浦島太郎の足元から腰、胸と上がってきます。
浦島太郎は息を止めようとしましたが、不思議なことに、海の中だというのに、地上にいるのと同じように息ができたのです。
亀は、助けてもらった恩を決して忘れていなかったのです。
浦島太郎の優しさが、この不思議な旅を運んできたのでした。
亀は海底をどんどん潜っていきます。
やがて、遠くにキラキラと光るものが見えてきました。
近づくにつれて、その姿がはっきりと見えてきました。
それは、珊瑚や真珠、きらめく玉石でできた、まばゆいばかりの宮殿でした。
これこそが、海の底の都、竜宮城です。
門をくぐると、色とりどりの魚たちが、まるで兵隊のように整列して、浦島太郎を迎え入れてくれました。
海草のカーテンが揺れる廊下を通り、浦島太郎は宮殿の奥へと進みました。
そして、一番奥の広間に通されると、そこにいたのは、この世のものとは思えないほど美しい女性でした。
きらびやかな衣をまとい、優雅な笑顔を浮かべたその方こそ、竜宮城の主、乙姫様です。
「ようこそ、浦島様。遠いところまで、よくおいでくださいました。あなたの、亀への親切、心より感謝申し上げます」
乙姫様は、優しく浦島太郎の手を取りました。
浦島太郎はあまりの美しさに、ただ立ち尽くすばかりでした。
それから始まったのは、まさに夢のような日々でした。
豪華な宴が毎日のように開かれました。
見たこともないような珍しいご馳走が並び、酒を注ぐのは、人魚のような姿をした美しい侍女たちです。
海の中の生き物たちが奏でる、聞いたこともないような美しい音楽が響き渡ります。
乙姫様は、浦島太郎に竜宮城の様々な景色を見せてくれました。
昼も夜もない海の中で、魚たちが舞い踊り、きらめく宝石のような光が溢れる庭園を、浦島太郎は散策しました。
浦島太郎は、時間を忘れて遊び、笑い、過ごしました。
故郷のことも、漁師の仕事のことも、すっかり頭から消えてしまいました。
「ああ、ここは天国だ」
浦島太郎は毎日そう思いました。
一日が一年のように長く、そしてあっという間に過ぎていくように感じました。
乙姫様との別れ
しかし、どれほど楽しい時が続いても、浦島太郎の心の片隅に、ふと故郷の村の景色が浮かぶことがありました。
「村の皆は、どうしているだろうか。私の舟は、どうなっているだろうか…」
ある日、浦島太郎は意を決して、乙姫様にお願いしました。
「乙姫様、本当に楽しく、幸せな日々でございました。しかし、私は故郷へ帰らなければなりません。村の様子が、気になって仕方がないのです」
乙姫様は、寂しそうな顔をされました。
「浦島様、まだ帰りたくないなどとおっしゃるのかと思っておりましたのに…」
「申し訳ございません。この恩は、一生忘れません」
浦島太郎が深く頭を下げると、乙姫様は静かに頷きました。
「わかりました。では、お帰りの準備をいたしましょう。ですが、浦島様、たった一つだけ、あなたにお渡ししたいものがございます」
そう言って乙姫様は、美しい箱を持ってこさせました。
金銀で飾られ、紐で固く結ばれた、手のひらに乗るほどの大きさの箱です。
「浦島様。これは、玉手箱と申します。どうぞ、大切になさってください。そして、決して、決して開けてはなりません。良いですね、約束ですよ」
乙姫様は、何度も念を押しました。
浦島太郎は、不思議に思いながらも、乙姫様との約束を胸に玉手箱を受け取りました。
「はい、乙姫様。決して開けません。お約束いたします」
浦島太郎は深々と頭を下げ、名残惜しくも竜宮城を後にしました。
再び亀の背中に乗り、浦島太郎は海面を目指しました。
亀は浦島太郎を乗せ、あっという間に地上へ連れ戻してくれました。
「浦島様、さようなら。お元気で」
亀はそう言うと、静かに海の中へと帰っていきました。
浦島太郎は故郷の浜辺に立ちました。
見慣れた景色のはずですが、なんだか様子が違います。
「さて、舟はどこに置いたかな…」
浦島太郎が村へ向かって歩き出すと、道行く人々が、浦島太郎を見て不思議そうな顔をします。
「見慣れない若者だね」
「一体、どこから来たんだ?」
浦島太郎は、村の入り口まで来ましたが、知っている家がありません。
人々の顔も、見覚えのない者ばかりです。
浦島太郎は、慌てて声をかけました。
「すみません、この村の浦島太郎という者を知りませんか?漁師なのですが…」
すると、一番年配の老人が、首を傾げながら言いました。
「浦島太郎?ああ、むかしむかし、遥か昔に、竜宮城へ行ったまま帰らなかったという、伝説の漁師がいたそうだが、まさかお前さんのことではあるまい」
浦島太郎は愕然としました。
「私は、たった三年ほど竜宮城にいただけですよ!」
しかし、浦島太郎が竜宮城で過ごした三年の間に、故郷の村では何百年の時が流れていたのです。
知っている人は、もう誰もいません。
浦島太郎の家も、浦島太郎の舟も、全てが遠い昔の出来事になっていました。
浦島太郎は、あまりの孤独と悲しさに、その場で立ち尽くしてしまいました。
「ああ、私は…どうなってしまったのだろう…」
寂しさ、悲しみ、そしてこれからどう生きていけば良いのかという不安。
浦島太郎の心は、重い石のように沈みました。
ふと、浦島太郎は手に持った玉手箱を見つめました。
「そうだ。乙姫様からいただいた、この箱には、何かヒントがあるかもしれない。これを開ければ、この状況をどうにかできるかもしれない!」
浦島太郎は、乙姫様との**「開けてはならない」という大切な約束**を、すっかり忘れてしまったのです。
目の前の困難から逃れたい一心で、約束を破ろうとしてしまいました。
浦島太郎は、玉手箱の紐を解き、ゆっくりと蓋を開けました。
途端に、箱の中から白い煙が、もくもくと立ち上りました。
その煙は、浦島太郎の体を取り巻き、あっという間に消えていきました。
煙が消えた後、浦島太郎の姿は、すっかり変わってしまいました。
つやつやしていた黒髪も、長く美しいヒゲも、一瞬にして真っ白になりました。
顔には深くしわが刻まれ、腰は曲がり、浦島太郎は見る影もない、よぼよぼのおじいさんになってしまったのです。
竜宮城で過ごした楽しい時間に、時の流れを封じ込めていたのが、この玉手箱でした。
乙姫様は、浦島太郎が地上へ帰った時、時の流れに驚き、悲しむことを心配して、未来のためにと箱を渡してくれたのかもしれません。
しかし、浦島太郎が約束を破り箱を開けたことで、何百年の時が一気に浦島太郎の身に降りかかってしまったのです。
浦島太郎は、よろよろと砂浜に座り込み、小さな声で泣きました。
「乙姫様、ごめんなさい…約束を破ってしまいました…」
