暑い夏の盛り、太陽が西の山に沈み、空が茜色に染まる頃、山あいの小さな町では、年に一度の夏祭りが始まろうとしていた。
この町に住む、元気いっぱいの五歳の男の子、太郎は、胸を高鳴らせていた。
太郎の家は、町の中心にある古い神社のすぐそばにあり、祭りの準備が始まる頃から、いつもそわそわしていた。
太郎にとって、この祭りは特別なものだった。
理由はただ一つ、太郎が心の中で密かに願っている願い事を、神様が聞いてくれるかもしれないと思っていたからだ。
その願い事とは、「一番星を捕まえて、お母さんにあげたい」という、幼い太郎らしい、無邪気で、しかし切実なものだった。
太郎のお母さんは、少し体が弱く、夜空を見上げるだけでも、すぐに疲れてしまうのを知っていたからだ。
今年の祭りの日、太郎は朝からソワソワして、お父さんの法被姿や、お母さんが支度する浴衣姿を見ても、上の空だった。
昼過ぎから、神社の境内には、色とりどりの出店が並び始めた。
焼きそばの香ばしい匂い、金魚すくいの水音が、祭りの始まりを告げていた。
日が暮れ、いよいよ祭りの本番だ。
神社の参道には、無数の提灯が灯され、辺り一面が、温かい橙色の光に包まれた。
太郎は、お母さんに買ってもらったばかりの、金魚柄の浴衣を着て、お父さんに手を引かれながら、境内へと向かった。
太鼓の「ドンドン」という力強い音と、笛の「ヒューヒュー」という高い音が、太郎の胸をさらに躍らせた。
「お父さん、僕、今日こそお願い事をするんだ」と、太郎は真剣な顔で言った。
お父さんは、太郎の頭を優しく撫でて、「そうか。太郎の願い事は、きっと届くよ」と、微笑んだ。
太郎は、綿菓子をねだり、その甘い香りを楽しみながら、賑わう人々の間を縫って歩いた。
射的の店では、お父さんに肩車をしてもらい、狙いを定める真似をした。
金魚すくいの店では、赤い金魚たちが、キラキラと光る水の中を、優雅に泳いでいる。
太郎は、その美しい光景に、思わず立ち止まった。
「まるで、夜空の星みたいだね」と、太郎は呟いた。
その時、太郎の耳に、か細い、しかしはっきりとした声が響いた。
「君の願い、本当に叶えたいの?」
太郎は、声のする方を向いた。
そこには、金魚すくいの水槽の奥に、きらりと光る、小さな金魚が一匹いた。
その金魚は、他の金魚とは違い、全身がまるで夜光石のように淡く光り、特に尾びれは、星屑のように輝いていた。
太郎が驚いていると、その金魚はもう一度、「ねえ、どうなの?」と尋ねた。
太郎は、息を飲んで、その金魚に近づいた。
「君は、誰?金魚なのに、話せるの?」
金魚は、水面からほんの少し顔を出し、「私は、この祭りの夜にだけ、願いを聞く星降りの金魚だよ。君の願い、聞かせてもらうよ」と、静かに言った。
太郎は、まさか金魚が話すとは夢にも思わず、しばらく呆然としていた。
しかし、その金魚の瞳が、優しく、そしてどこか寂しげに見えたので、太郎は勇気を出して、自分の願いを話した。
「僕、一番星を捕まえて、お母さんにあげたいんだ。お母さん、夜空を見るのが大好きなのに、すぐ疲れちゃうから」
金魚は、水槽の中をゆっくりと一回りすると、静かに言った。
「なるほど、それは素敵な願いだね。でも、一番星は、とても遠いし、熱いよ。捕まえるのは、簡単じゃない」
太郎は、しょんぼりして、「やっぱり、無理かな…」と、うつむいた。
すると、金魚は再び光を強め、「諦めるのは早いよ。私には、君の願いを叶えるための秘密の方法がある」と言った。
太郎は、顔を上げて、「本当?どんな方法?」と、目を輝かせた。
金魚は、水槽の底に沈んだ、小さな、丸い石を指した。
それは、他の石とは違い、微かに青白い光を放っていた。
「それは、願いの石。この祭りの夜にしか現れない、特別な石だよ」と、金魚は説明した。
「君がその石を手に取り、心を込めて願い事をすれば、私の魔法で、君を一番星の近くまで連れて行ってあげられる。ただし、条件がある」
太郎は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「条件って、何?」
金魚は、静かな声で答えた。
「一番星を捕まえることができるのは、祭りの提灯の光が、全て消えるまでの間だけ。そして、もし願いが叶わなかったら、君は私と永遠に一緒に、この水槽の中で暮らすことになる」
太郎は、その条件の重さに、一瞬ためらった。
永遠に水槽の中。それは、お父さんやお母さんと、もう会えなくなるということだ。
しかし、お母さんの笑顔を思い浮かべると、太郎の心は決意に満ちた。
「わかった。僕、その条件を飲むよ。お母さんのために、頑張る」
金魚は、「勇気あるね」と言うと、水槽の水を、渦のように回転させ始めた。
太郎は、周りに誰もいないことを確認し(実はお父さんは焼き鳥の列に並んでいて、少し離れていた)、そっと水槽に手を伸ばし、願いの石を掴んだ。
石は、ひんやりとしていて、手のひらに乗せると、ますます青白く輝いた。
太郎が目を閉じ、「お母さんに、一番星をプレゼントできますように」と心の中で強く念じると、金魚は、「さあ、旅立ちの時間だ」と、言った。
次の瞬間、太郎の体は、強い光に包まれ、ふわりと宙に浮いた。
そして、あっという間に、祭りの賑やかな音も、人々の声も遠ざかり、太郎は、夜空へと吸い込まれていった。
太郎が目を覚ますと、そこは一面の漆黒、そして、満天の星空が広がっていた。
太郎は、体がふわふわと浮いている感覚に戸惑ったが、怖くはなかった。
足元には、金色に輝く道のようなものがあり、その道が、一番星へと続いているようだった。
「さあ、急いで。もうすぐ、神社の太鼓の音が止まる。それが、時間切れの合図だよ」
声の主は、太郎の隣にいた。
星降りの金魚は、巨大な透明な泡のようなものに包まれ、太郎の導き手となっていた。
金魚の体から発せられる淡い光が、太郎の進む道を照らしていた。
「あれが、一番星だよ」と、金魚が、ひときわ大きく輝く星を指差した。
その星は、遠くから見ても、ダイヤモンドのように強烈な光を放ち、熱気が伝わってくるようだった。
太郎は、一歩踏み出した。
しかし、道は平坦ではなかった。
目の前には、星の河が流れ、その上に、七色に光る橋がかかっていた。
金魚は、「その橋を渡らなければ、一番星には辿り着けない。でも、橋には試練がある」と、警告した。
橋のたもとには、銀色の狛犬のような、不思議な生き物が座っていた。
その生き物は、太郎が近づくと、低い声で言った。
「そこの少年よ、一番星を望むなら、勇気と知恵を示せ。お前に、三つの問いを出す」
太郎は、ゴクリと唾を飲み、「はい、なんでも答えます」と、力強く言った。
狛犬は、最初の問いを投げかけた。
「祭りの夜に、誰もが心に秘めている、一番大切なものは何だ?」
太郎は、少し考えた。
賑わい、食べ物、花火。色々あるけれど、一番大切なものは…
「それは、笑顔です!お父さんやお母さん、みんなの楽しい気持ちと笑顔です」
狛犬は、静かに頷いた。
「二つ目の問い。お前の願いは、一番星を捕まえることだが、それは、誰のための願いだ?」
これは、簡単だ。
「お母さんのためです。お母さんに、僕の気持ちを届けたいからです」
狛犬の表情が、少しだけ緩んだように見えた。
そして、最後の問い。
「お前は、星を捕まえられなかったら、永遠に水槽の中で暮らすという、約束をした。その覚悟を、今も持っているか?」
太郎は、星降りの金魚の顔を見た。
金魚は、静かに微笑んでいた。
太郎は、もう一度、お母さんの優しい笑顔を思い出し、決意を新たにした。
「はい、持っています!僕は、後悔しません。お母さんに、僕の気持ちを伝えるためなら、なんだってする覚悟です」
狛犬は、その言葉を聞くと、「見事。お前の心は、純粋で強い。橋を渡ることを許す」と言って、道を空けた。
太郎は、虹色の橋を渡り終え、ついに一番星のすぐそばまで辿り着いた。
しかし、星はあまりにも巨大で、眩しく、そして熱い。
とても、小さな手で掴めるものではなかった。
「やはり、無理なのか…」と、太郎は、絶望しそうになった。
その時、金魚が優しく囁いた。
「太郎、捕まえようとしなくていい。君の心を、星に届けるんだ」
太郎は、ハッとした。
そうだ、大切なのは、星そのものではなく、この星に込める気持ちだ。
太郎は、両手を広げ、一番星に向かって、心の中で、お母さんへの感謝と愛情を叫んだ。
「お母さん、いつもありがとう!元気になってね!」
その瞬間、一番星の光が、ふわりと分散し、その中から、一筋の、柔らかな光が、太郎の手のひらに落ちてきた。
それは、一番星の欠片のように見えた。熱くもなく、眩しくもない、優しい光だった。
太郎が、その光をそっと掴むと、体全体が、再び強い光に包まれた。
次に目を開けた時、太郎は、自分の家の布団の中にいた。
窓の外は、もう朝になっていて、祭りの喧騒は、嘘のように静まり返っていた。
「あれは、夢だったのかな…」と、太郎は、寝ぼけた頭で考えた。
しかし、太郎の右手の中には、昨夜掴んだ、一番星の欠片が、まだ淡く輝いていた。
それは、手のひらに乗るほどの大きさで、まるで夜明けの空のような、美しい青色をしていた。
太郎は、急いで布団から飛び出し、欠片を胸に抱いて、お母さんの部屋へ向かった。
お母さんは、まだ眠っていたが、その顔は、いつもより穏やかで、血色が良かった。
太郎は、そっと欠片を、お母さんの枕元に置いた。
「お母さん、僕の宝物だよ。一番星の欠片、元気になってね」と、囁いた。
すると、欠片は、一瞬、強くキラリと光り、その光が、お母さんの顔全体を優しく包み込んだ。
お母さんは、目を覚まし、太郎の顔を見て、微笑んだ。
「太郎…、おはよう。なんだか、すごく元気が湧いてくるわ」
お母さんは、枕元の青い石のようなものを見つけ、不思議そうに尋ねた。
「これ、なあに?とても綺麗な石ね」
太郎は、昨夜の冒険を、全てお母さんに話した。
星降りの金魚のこと、狛犬の三つの問いのこと、そして、一番星への願いを込めたこと。
お母さんは、全て聞き終わると、優しく太郎を抱きしめた。
「太郎…、なんて素敵な贈り物をありがとう。この石は、太郎の勇気と優しさの証ね。私、この石を見ていると、絶対に病気なんかに負けないって思えるわ」
その日以来、お母さんの体調は、目に見えて回復していった。
太郎は、祭りの夜に会った星降りの金魚のことを、時々思い出した。
金魚すくいの水槽には、もう、あの光る金魚の姿はなかった。
しかし、太郎が家の裏にある、小さな池を覗くと、水面から一筋の光が反射することがあった。
それは、金魚が「また来年」と、約束のサインを送っているようにも見えた。
太郎は、来年の祭りが、今から楽しみでならなかった。
なぜなら、その時までに、きっと、また新しい願いが、太郎の心の中で、静かに育っているだろうから。
そして、太郎は知っていた。
本当に大切なのは、星そのものではなく、誰かを大切に想う気持ち、そして、その気持ちを伝える勇気なのだと。
太郎は、一番星の欠片が放つ、温かい青い光を見つめながら、次の夏を心待ちにした。
