むかしむかし、あるところに、とても心優しい母さん蟹と、元気な子蟹たちが暮らしていました。
母さん蟹は毎日、川のほとりで美味しい苔を集めたり、子どもたちのために一生懸命働いたりしていました。
子蟹たちもそんなお母さんが大好きで、いつも後をついて回り、ハサミの動かし方や、きれいな小石の見つけ方を教わっていました。
ある晴れた日のことです。
母さん蟹が、ほかほかの美味しそうなおむすびを一つ、大事そうに持って歩いていると、向こうからひょいひょいと、ずる賢そうな顔をしたお猿さんがやってきました。
お猿さんは、母さん蟹の持っているおむすびを見ると、じゅるりとよだれを垂らしました。
「やあ、蟹さん、蟹さん。なんて美味しそうなおむすびだ。わしが持っている、このピカピカの柿の種と交換しないかい?」
母さん蟹は、まん丸で真っ白なおむすびをぎゅっと抱きしめました。
これは、子どもたちと後で分け合って食べようと思っていた、大切なお昼ごはんです。
「まあ、猿さん。でも、これはお米でできていて、すぐに食べられますけれど、あなたの持っている種は、食べられませんもの」
すると、お猿さんは待ってましたとばかりに、ぺらぺらとよく回る口で言いました。
「何を言っているんだい、蟹さん。この柿の種を土に植えてごらん。やがて芽が出て、大きな木になって、毎年あまくて美味しい柿がたくさんなるんだ。
おむすびは一度食べたらおしまいだけど、柿の木はこれからずーっと、君たち家族のお腹をいっぱいに満たしてくれるんだよ。これは未来への宝物さ」
母さん蟹は、その言葉に心を動かされました。
自分がお腹をすかせるのは平気だけれど、子どもたちにはいつだってお腹いっぱい食べさせてあげたい。
毎年甘い柿が食べられるなんて、なんて素敵なことでしょう。
「……ほんとうに?ほんとうに、たくさんの甘い柿がなるかしら?」
「もちろんだとも!わしは嘘なんてつかないよ」
お猿さんは胸をぽんと叩いてみせました。
優しい母さん蟹は、お猿さんの言葉を信じることにして、大切なおむすびと、たった一粒の柿の種を交換しました。
お猿さんはおむすびをひったくるように受け取ると、あっという間に平らげて、口の周りについたご飯粒をぺろりと舐めながら、森の奥へと消えていきました。
母さん蟹は、手のひらに残った小さな柿の種をじっと見つめました。
そして、子どもたちが待つお家に、その小さな希望を大切に持って帰ったのでした。
お家に帰ると、母さん蟹は子蟹たちに柿の種を見せて、お猿さんとの出来事を話しました。
子蟹たちは、おむすびがなくなってしまったことを少し残念に思いましたが、お母さんが「これから毎年、甘い柿が食べられるのよ」と嬉しそうに言うので、すぐに元気を取り戻しました。
次の日から、蟹の親子はみんなで力を合わせて、お庭のひなたの良い場所に柿の種を植えました。
そして、毎日毎日、一生懸命お水を運びました。
「はやく芽をだせ、かきのたね。ださなきゃハサミでちょんぎるぞ」
これは、脅かしているわけではありません。
蟹さんたち家族の、愛情のこもった、優しいおまじないの歌でした。
その歌声は、まるで子守歌のように土の中に響き渡り、柿の種は安心して、少しずつ少しずつ、土の中で根を伸ばし始めました。
やがて、可愛らしい双葉がぴょこんと顔を出し、太陽の光を浴びてぐんぐん伸びていきました。
蟹さんたちの歌と愛情をたっぷり受けて、柿の木はあっという間に大きくなり、何年か経つと、空に手を伸ばすような立派な木に成長しました。
そしてある秋、枝もたわわに、オレンジ色に輝く美味しそうな実をたくさんつけたのです。
「わあ、すごい!お母さん、見て!あんなにたくさん!」
「本当だねえ。なんて美味しそうな柿でしょう」
蟹の親子は、自分たちの育てた柿の木を見上げて大喜びしました。
しかし、困ったことが一つありました。
蟹さんたちは、つるつると滑る木の幹を登ることができません。
あんなに高いところにある柿の実を、どうやって取ったらいいのでしょう。
親子が途方に暮れていると、どこからかその様子を見ていたのか、あのずる賢いお猿さんがひょっこり現れました。
「やあ、蟹さんたち。見事な柿の木じゃないか。困っているようだね。よーし、わしが木登りは得意だから、一つ残らず取ってきてやろう」
蟹さんたちは大喜びです。
「まあ、猿さん、ありがとう!お願いしますわ」
お猿さんは、待ってましたとばかりに、するするするっといとも簡単に木の上に登っていきました。
そして、一番大きくて、真っ赤に熟れた実をもぎ取ると、パクリと一口。
「うーん、これはうまい!甘くてとろけるようだ!」
お猿さんは、蟹さんたちのことなどすっかり忘れ、次から次へと熟した柿を自分のお腹の中に入れていきます。
下で待っている子蟹たちが、「猿さーん、私たちの分はー?」と声をかけると、お猿さんは意地悪く笑いました。
「お前たちには、これで十分だ!」
そう言うと、まだ青くて石のように硬い柿の実を、力いっぱい蟹の親子に向かって投げつけたのです。
「危ない!」
母さん蟹は、とっさに子どもたちを自分の体の下に隠しました。
ゴツン、ゴツン!硬い柿の実は、無情にも母さん蟹の甲羅に当たりました。
母さん蟹は、「うっ…」と小さなうめき声をあげると、そのままぐったりと動かなくなってしまいました。
お猿さんはそれを見ると、けらけらと笑いながら、熟した柿でいっぱいになったお腹をさすり、どこかへ行ってしまいました。
残されたのは、泣きじゃくる子蟹たちと、傷ついて動けないお母さん蟹だけでした。
「お母さん、お母さん!」
子蟹たちは、動かない母さん蟹の周りに集まり、さめざめと泣きました。
幸い、母さん蟹は命に別状はありませんでしたが、硬い柿の実が当たった甲羅はひどく傷つき、しばらくは起き上がれそうにありません。
一番年上の子蟹は、涙をぐっとこらえて言いました。
「泣いているだけじゃだめだ。僕たちがしっかりしなきゃ。あのお猿さんに、自分がいけないことをしたんだって、わかってもらわなきゃ!」
他の子蟹たちも、こくこくと頷きます。
小さなハサミを固く握りしめ、母さんの仇を討つ、いえ、お猿さんに心から反省してもらうための旅に出ることを決意しました。
とぼとぼと歩いていると、道端の囲炉裏のそばで、大きな栗が一つ、ため息をついていました。
「栗さん、どうしてため息なんてついているの?」
子蟹が尋ねると、栗は言いました。
「わしはいつも、こうして火のそばにいて、いつかパチンと弾けて人に食べられるのを待つばかり。一度でいいから、この熱い体で誰かの役に立ってみたいんじゃよ」
子蟹たちは事情を話しました。
すると栗は、「よし、わかった!わしも連れて行ってくれ。あのお猿さんの冷たい心を、わしの熱さで温め直してやろうじゃないか」と、仲間になりました。
一行がさらに進んでいくと、今度は大きな石臼が、道の真ん中でじっと座っていました。
「臼さん、こんにちは。何か考え事ですか?」
臼は重々しい声で答えました。
「わしは、いつもお米やお餅をぺったんこにするのが仕事じゃ。この重たい体、もっと大きなことのために使えんもんかのう」
子蟹たちがまた事情を話すと、臼は「なるほど!それは面白そうだ。わしのこの重さで、お猿さんに『命の重さ』というものを教えてやろう」と、ごろごろと後をついてきてくれることになりました。
さらに行くと、ぶんぶんと羽音を立てて、一匹の蜂が飛んできました。
「蜂さん、なんだか怒っているみたいだね」
「そうだよ!みんな僕のこと、小さいからって馬鹿にするんだ。チクリと刺すことしかできないって。でも、仲間と力を合わせれば、大きなことだってできるんだって、証明してやりたいのさ!」
子蟹たちの話を聞いた蜂は、大喜びで仲間になりました。
「僕の鋭い針で、お猿さんの悪い心にチクリと一刺し、気づきのきっかけを与えてあげるよ!」
そして、旅の最後に一行が出会ったのは、大きな牛の落とし物でした。
最初はみんな少し敬遠しましたが、子蟹は勇気を出して話しかけました。
「あの…こんにちは」
牛の落とし物は、もぞもぞと動いて言いました。
「やあ。わしはみんなに汚いって言われて、いつも避けられるんじゃ。
でもね、わしだって、わしにしかできない方法で、誰かをあっと驚かせることができると信じとるんじゃよ」
その言葉に、子蟹たちは心を打たれました。
見た目や大きさで判断してはいけない。みんな、それぞれに素晴らしい力を持っているんだ。
牛の落とし物も、喜んで仲間になりました。
こうして、子蟹、栗、臼、蜂、そして牛の落とし物という、とても不思議な仲間たちが集まりました。
みんなで輪になって、ずる賢いお猿さんに反省してもらうための、とっておきの作戦を考え始めたのです。
その夜、猿の家に、小さな勇者たちがそっと忍び込みました。
作戦通り、栗はまだほんのり温かい囲炉裏の灰の中へ、蜂は水がいっぱい入った水瓶の中へ、臼は戸棚の上へ、そして牛の落とし物は、家の出口の土間にぺたりと隠れました。
子蟹たちは、戸の陰で静かに息を潜めて、その時を待ちました。
やがて、お猿さんがお腹いっぱいで上機嫌に帰ってきました。
「いやあ、今日も柿はうまかったなあ。蟹のやつら、今頃泣いてるだろうな」
独り言を言いながら、冷えた体を温めようと囲炉裏のそばに腰を下ろしました。
その時です!
灰の中に隠れていた栗が、お猿さんのお尻めがけて、パチーン!と勢いよく弾けました。
「あちちちち!なんだ!?」
お猿さんは飛び上がって、やけどしたお尻を冷やそうと、水瓶に駆け寄りました。
蓋を開けた瞬間、中から待ち構えていた蜂がブーン!と飛び出してきて、お猿さんの鼻の頭をチクリ!
「いってー!蜂までいやがるのか!」
半泣きになったお猿さんは、薬を探そうと戸棚を開けようとしました。
その時、戸棚の上で待ち構えていた臼が、ドッスーーーン!とお猿さんの上に落ちてきました。
「ぐえっ!お、重い…つぶれる…」
お猿さんは、星が目にちらつきました。
ほうほうの体で臼の下から這い出すと、「もうこんな家いやだー!」と叫びながら、入り口に向かって一目散に逃げ出しました。
そして、最後。
出口の土間に足を踏み出した瞬間、そこに隠れていた牛の落とし物で、つるりん、べっちゃーん!
お猿さんは見事に足を滑らせ、派手に転んでしまいました。
もう体は痛いし、臭いし、散々な目にあったお猿さんが、呆然と座り込んでいると、戸の陰から子蟹たちがそろそろと出てきました。
子蟹たちは、怒鳴りもせず、ただ静かにお猿さんの前に並びました。
そして、一番年上の子蟹が、震える声で言いました。
「猿さん…。僕たちのお母さんは、あなたが投げた硬い柿が当たって、まだ起き上がれないんだ。僕たちは、ただ、あなたに謝ってほしかったんだ。甘い柿を、お母さんにも食べさせてあげたかったんだ…」
その言葉を聞いて、お猿さんはハッとしました。
自分はなんてひどいことをしてしまったんだろう。ただのいたずらのつもりだった。
でも、そのせいで、蟹さん親子を深く、深く傷つけてしまった。
お尻のやけども、鼻の腫れも、臼にぶつかった痛みも、全部、自分のしたことの報いなんだ。
お猿さんの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちました。
「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…。わしが悪かった。どうか、許してください」
お猿さんは、泥だらけの頭を地面につけて、何度も何度も謝りました。
子蟹たちは、そんなお猿さんを見て、静かに頷きました。
次の日、お猿さんは、一番大きくて甘そうな、熟した柿の実を山ほど持って、蟹さんたちのお家をお見舞いに訪れました。
動けない母さん蟹の口元へ、そっと柿を運んであげました。
「母さん蟹さん、本当に申し訳ありませんでした」
母さん蟹は、そんなお猿さんを優しく見て、にっこりと微笑みました。
「もういいんですよ、猿さん。こうして、あなたが自分の過ちに気づいてくれたことが、何より嬉しいのですから」
それからというもの、心を入れ替えたお猿さんは、森一番の親切な猿になりました。
木に登れない仲間のために木の実を取ってあげたり、小さな動物たちが道を渡るのを手伝ってあげたり。
そして、蟹さんたちとは、本当の友達になりました。
秋になると、みんなで柿の木を囲み、美味しい柿を分け合って食べるのが恒例になりました。
栗さんも、臼さんも、蜂さんも、牛の落とし物さんも、みんなその輪に加わって、楽しそうな笑い声がいつまでも森に響いていたということです。
